2017.01.28 Saturday
“ファンタジー”の必要性と危険性
世の中の、何か重要なものごとを維持するために、
1割の決定的な嘘をつく必要がある時、
その1割の非現実性を見抜かれないようにするために、9割の現実的な情報をあえて公開する、という事がある。
その結果、
けっきょく私達は何を信じればいいのか?
…というよりも、
けっきょく何に騙されたら最も幸せに生きられるのか?
という話にいきつく。
宗教の教えもそうだが、物事の真理を突きながらも必ず何割かファンタジーをまぜている、
だからこそ幸せな気持ちで信仰でき、幸せに死ねる。
行いが良ければ生まれ変われるとか、神様に祈れば結果が好転するなどというのは、自己暗示の効果などを考えれば100%嘘とは言い切れないし未来では科学的に証明されるかも知れないが、少なくとも現在のところは、ファンタジーの最たるものだろう。
しかしこれらはあくまでも、
人々が幸せに生き、幸せに死ぬために存在している崇高なファンタジーなのであって、
決して否定すべきものではない。
ところが、崇高なファンタジーは、悪用される事も多い。
信仰と詐欺とは、常に紙一重だという事を頭の片隅においておき、もしも悪用に気付いたならば、避けて通る必要がある。
いかに立派な人や、立派な宗教と出会っても、
「信仰はしても、洗脳はされるな。」
というのが基本だ。
何かを狂信するあまり、それを全肯定する、あるいは、全肯定したいと強く感じるならば、自分は既に洗脳されていると疑うべきである。
そもそもこの世に、全肯定できる物事は、生物、静物を問わず存在しないのではないか?
今までのところ、完璧でない事こそが、現実である。
世界中の数学者や科学者、化学者たちは、しばしば “完璧な何か” を追い求める。
そしていまだに、その “何か”を発見できずにいるようだ。